井上雄彦『円空を旅する』

僧侶の作る仏像に興味がある。そのお坊さんにとって仏教がどういうものなのかというのが、如実に表れるように思うからだ。
15世紀モンゴルの高僧・ザナバザルは天才的な仏師でもあり、本当に命が宿っているような仏像を多く残している。そんな話をある時モンゴル人としていたら、彼の仏像の艶めかしさは、彼自身の心身の葛藤の表れだと思うと言われた。宗教心と生物的本能、その折り合いをつけるための仏像制作。艷やかな体と透徹な表情、その微妙なアンバランスさは、もしかしたらその格闘の痕なのだろうか。だとしたら、極めて人間的なそれこそが、畏れを抱かせながらも、触ってみたいという気持ちを駆り立てる素なのかもしれない。
そんなことを考えたのは、江戸時代の修行僧であり彫刻家だった円空作の仏像を、スラムダンクの作者の井上雄彦がめぐるという本を読んだからだ。
円空が生涯に彫った仏像の数、12万。無心に彫ることでしか達成され得ない数だろう。機会があれば彫り、求められれば作った。木っ端や立ち木にも彫った。多くの仏像は非常にシンプルだ。
それは仏像の形だけでなく、円空自身を削ぎ落としていく過程でもあったに違いない。井上は「円空さんは、自然の理に対する絶対的な肯定感から出発している」と言うが、その核が見えていたからこそ、どんなときにも迷わず、目の前の木におわす仏を表出させることができたのではないだろうか。民芸に仏像はありうると考えずにはいられない。
井上は、円空さんの仏像には「現役感がある」という。この親しまれ方はしかし、ザナバザルの仏像とは異なるように感じる。人を慈しむだけでなく、人から慈しまれる仏像。簡素な形から生まれる表情と雰囲気はとても豊かだ。あるがままでよいという芯を、ただただ伝える仏像。円空さんの仏像。


p30

井上「両面宿儺像のあの憤怒のお顔は、自分の外側にある抑止力としての戒めというより、自分の中にある肯定すべきものと比べたときの違和感の表明だと感じたんです。…人を斬る人間も、仏を彫る人間も、石も木も、すべて同じ中心にもとづいている。だとすれば憤怒は、人間のどうしようもない性によって、本来の中心とは別の中心をこしらえてしまうことに対する違和感ではないでしょうか」

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